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父親のこと。

僕は親が離婚したこと、自分が離婚したこと、母親と一緒に暮らしていることは普通に話しますが、父親のことは滅多に話しません。

今日はその父親の話です。

父親のだめなところ

なんか再会系のテレビ番組とかのドキュメンタリーでよくある話なんですが、父親は酒が好きでした。で、好きで飲み過ぎて周りに迷惑をかけてしまうひとでした。人格が本当に豹変してしまうひとでした。

本人の意地っ張りな性格が事後処理をさらにややこしくしてました。本人は酒を飲んで覚えていないから、自分が寝て起きたら周りが怒っていること、言っていることを理不尽に感じて、それに反抗してしまうのです。

怒りの沸点がわからない人でした。いつ、どのタイミングで怒りだすかが誰にも理解できないのです。おかげで母親はいつも泣かされてました。僕も理不尽な言葉の暴力をなんど受けたかわかりません。弟はそれをみてうまくやるやり方を学んでましたが、高校卒業後すぐ家をでて一人暮らしを始めた僕に対して成人してからしばらく家にいた弟は、大人になってからの父親の理不尽な行動と言葉の暴力を受けたみたいです。

父親はお金にルーズなひとでした。あと嘘を上手につきとおせるひとでした。裏で借金が大量にあるなか踏み倒し、お金を借りることができる相手がいないと知るや僕の母方のばーちゃんの所にいき「妻を幸せにするからお金を貸してほしい」といい、そのお金を愛人の家を借りてやるのに使うような人でした。もちろんその後ばーちゃんにはお金を返してません。

そういった父親の性格の駄目な部分の集大成が弟の結婚相手の顔合わせでした。弟と弟の結婚相手、その家族がいる前で父親は相手の一家を罵倒することをやらかして、弟から絶縁を言い渡されました。

その数ヶ月後母親とも離婚。いまは家族で二十年間暮らした家に新しい女をいれて生活しています。

僕が、あれほど女を早く追い出せ、実家にいれるのはやめろと言っているのも聞かずに、まだその女性と暮らしているようです。

父親のよいところ

もうこの時点で「父親っつーか人としてだめだろ」感が満載なんですが、まーよいところもないわけじゃないんです。

こんな駄目な父親だけど、子育てには一生懸命でした。

子供の可能性を開いてやろうと必死でした。とはいえ性格的にやっぱり不器用だったり、思った通りに子供が成長しないのが彼にとって苛立ちのもとだったらしく、できないこと、テストで点をとれないこと、偏差値が県内有数の志望校に追いつかないことで怒られました。反抗すれば「嫌なら家をでていけばいい」の一点張りで、どうしても反論は許せなかったみたいです。それでも可能性をひろげるためになにを与えたらよいかは考えているみたいでした。そして頼まれたことは必ずやってくれました。

ミニ四駆の肉抜きを電磁カッターで正確無比に仕上げて翌朝渡してくれたり、プラモデルを作るときのエアブラシのセットを叔父と連携して最強のものを用意してくれたり。家の中だとプラモデルがつくれないから、家の庭に小屋をたててそこを使わせてくれたり。

父親はアウトドアも好きでした。野球やキャッチボール、スキー、テニスをはじめ、登山やハイキングもつれてってくれました。実家にはキャンプ用具一式があって、毎年のように海や山に言ってました。今は行けなくなっちゃったけど、福島のいわきにある第七埠頭で家族で釣りをしたり、相馬の海辺でキャンプしたのはいい思いでです。釣りにいったとき魚に詳しい父親は、大きなボラを釣って喜んでいる僕を「この魚はね、肉が固くて食えないんだよ」って教えてくれました。

中学生のときに図工や美術の時間にアメリカの俳優のイラストレーションを描いたとき、家にもって帰ると父親が「これ、部屋にかざっていいか?」といって自室の一角に枠にいれて飾ってくれていました。あと木彫りの写真立ても父親はもらってくれました。何気に僕が作ったものを好きになってくれる人でした。

僕が県内有数の高校に入れたとき、父親は相当喜んで、当時最新のPCを買ってくれました。Windows98。メモリは64MB、HDDは3GBでした。今考えるとぼろいけど、当時はすごくよいものでした。

僕はそれをつかって小説を書き始めると、ある日父親は家にインターネットをひいてくれました。小学校や公共の建物の回線整備をしている父親にとっては、家中にLANをはりめぐらせることもお手の物でした。僕の部屋にも回線がやってきて、さっそくそれでホームページを作り始めました。

父親は子供の成長が思い通りにならなかったことは苛立っていたかもしれませんが、子供の可能性を最後まで諦めませんでした。

今の家には父親が残した昔の運動会のビデオがフロッピーディスクに残っています。彼は当時珍しい大きなビデオをもって、黄色い帽子をかぶった僕を撮影してました。実家の奥にはそういったビデオがたくさん残っていると思います。

大人になってからみる父親

社会人になり、家にもどったら父親は家をあけることが多くなりました。愛人の家にいっていたわけなんですが、それを知らない僕と弟、母親は三人でごはんを食べながら「お父さん帰ってこないね」「ねー」といった会話をしていました。FXをはじめ、部屋にこもることが多くなりました。勉強会といって外にでてましたが、それも愛人の家にいっていただけでした。当時うちで飼っていた犬は、親父の愛人の家に連れて行かれているときに脱走し、実家に向けて帰ろうと走っている最中に車にはねられて尻尾を失いました。

僕が以前結婚していた嫁をつれていって紹介したとき、親父は大喜びで僕と嫁を自分がよく行く隣町のラーメン屋さんに連れて行ってくれました。父親がふと爪楊枝で耳をかいていたので「そんなのでかいていたらけがするよ」といった僕に対して「お前は耳の中やわらかいからいいけど、俺はね。違うんだよ」って言ってて、ああ、この人は僕が子供のときに僕の耳かきしてたことあって、それを覚えていたんだ、と不思議な気持ちになったのを覚えています。

そうやってたまに酒を飲んだりするのを楽しそうにする彼をみることもあったりなかったりするうちに、母親と離婚して、実家にだれも入れなくしてしまった父親。

今はたまに僕が帰郷したときに飲みに行きますが、母親と母方のばーちゃんは会ってほしくないみたいです。

父方のばーちゃんと叔父さんにはいつも謝られてしまいます。「こんな息子で申し訳ない」「あんちゃんが本当に申し訳ないことして」っていつも二人は僕と母親に頭を下げます。その度にとても胸が苦しく、辛い気持ちになります。どうしてあのひとは60を越えて、母親と兄弟を苦しめるんだろうって。

僕は父親が33のときに生まれた子供なので、僕が30になった今、彼は今年で63になります。60をこえて自分の母親と弟に迷惑をかけつづける父親。三十年一緒にいた家族と家を捨てた父親。

これからは横浜に住みたいらしいです。僕がまた結婚して子供ができたら会わせてほしい、といっているので孫の顔は見たいみたいです。とはいえ、いつまでも約束をまもらない彼が本当にできるのかはよくわかりません。

嫌いになってもいいのかもしれない、とたまに思います。。でも彼は僕にも酷いことは言ったけど、僕を致命的に落とすことはしておらず、それどころか今の仕事、今の趣味を始めるきっかけをくれ、可能性を開いてくれました。そしていまでもお酒を飲みたい、一緒に遊びたいと声をかけてくれるし、と思うと。

ただはっきりしているのは。

不器用だったけど、僕らにはできる限りの愛があり、可能性を信じていろいろやってくれていたということ。

日曜日は父の日。

連絡、したほうがいいのかな。