Episode 7 : Murders
上着を引っ掛けるとフランカは一目散に家に向かって走りだした。
(もうまっぴらよ! なにあれ!)
殺人。爆発。血。
冷静を保ってみせていたが、もうこりごりだった。
もっとも、最後は冷静でもいられなかったわけだが。
心の中でいろんな思いが交錯する。早足で夜のモスクワを歩いていく。当然いまは深夜なので地下鉄駅は全て閉鎖している。
歩くしか無い。
どこにいけばよいのかもわからないし、どうすればいいのかもわからない。
周囲をみると学校から帰る途中にあるく通りーーーアルバート通りだった。
フランカの今の家はカシールスカヤ駅が最寄り駅だから、歩いて帰る事になれば相当な距離だ。モスクワの中心をほぼ縦断するくらいになるが軽くマラソンするのだと思えばどうにでもなるだろう。
だがそれ以前にフランカは今自分がヒステリィを起こしているということに気付いていない。そして理由もない衝動的な逃避行動は、今の自分に迫る危険な事実を誘い込もうとしていることにほぼ等しい。
だがそれを気付く余裕すらフランカにはなかった。
混乱した思考は一つの結論を導きだす。だがそこにあるのは現実を論理的に考える余裕ではなく単純な逃避だった。
(もう嫌だ!)
その叫びはだれにとどくわけでもなく、暗闇を歩いていくフランカの身に危険はゆっくりと迫っていた。
ダンシング・アンダー・ザ・レイン
007
「まったく。なにしてんの」
声をつまらせながらアレシェンカはダニーを車に押し込み、エンジンをかけさせた。彼は複雑ななんとも言えない表情を浮かべながら車を発進させる。
「あんたあの子が殺されたら友達みつかんないよ」
「すまん。少し目を離した隙に」
苦しい言い訳をしながらダニーがアクセルを踏み込む。そちらを一瞬だけみてからアレシェンカはちいさく嘆息した。
「ミスは仕方ないけれど......こればっかりは」
その言葉に彼が言葉に詰まる。続けて車が通りを飛び出した。
その通りは普段観光客でにぎわうにぎやかな通りだ。人通りが少なくなれば車で走っても問題ない。ダニーがハンドルを切る。通りのど真ん中に飛び出していく。
「こんなときにいうのもあれだけどさ」
「ん?」
「あの人名前なんて言うの?」
「はあ?」
「ほら、さっきの。白衣のねーちゃん」
「エレナ?」
「エレナさんっていうんだ。いくつ?」
質問の意図が掴めずにアレシェンカは思わず眉をしかめてそちらを見やる。
「いくつだっけ......若く見えるけどたしか結構歳いってるよ」
「そっかあ......」
こちらの科白にあからさまに残念そうに肩を落とすと、ダニーはステアリングに体重をのせた。その危うい体勢での運転を見ながらドアに身体を預ける。
「なに......どうしたの」
「いや、フランカもそうだけど......あ、君もね。あのひとも、ロシア人は美人が多いなあって」
なにいってんだか、と心の中で思いながらアレシェンカは前方に視線を戻した。フランカを追い抜いてしまってないか不安だったが今のところはない。
「あたしの顔はわからないけど、フランカはかわいいよね。エレナは美人だけど......ダニー、一ついいこと教えてあげる」
「なんだ?」
そちらに半眼をむけたあとアレシェンカは外に視線を移しながら平坦な口調で続けた。
「ロシア人女性が美人なのは二十代半ばまでなんだよ」
「はあ?」
ちいさく嘆息するとアレシェンカは続けた。
「あとはぶくぶくふとって......そばかすが増えて......立派なお母さん体型に一直線だよ」
こちらの科白にがっくりとダニーが脱力する。車の運転はどうなのだろうとそちらをみるがそれには影響がないようだった。
非難するように彼が声をしぼりだしてくる。
「あのな......」
「二の腕とかもうひどいことになるよ......」
「夢を壊すな馬鹿!」
乾いた音が響く。きっとダニーがステアリングを叩いたのだろう。その抗議に反応を示さずにアレシェンカは小さく嘆息すると、
「ホントのことだよ」
とだけ短くそういって肘をついて頬を乗せた。まだフランカは見えない。
と、車内を沈黙がおちた。
しばらく走ってからダニーが突然口を開いてくる。
「お前の母ちゃんはどうだったんだ?」
「え?」
「お前の母親さ。昔は美人で、いまは太ってんのか?」
「あたし母親なんていないもの」
こちらのその一言に、ダニーが面食らったように閉口する。それから彼は一瞬間を置くとこちらの様子を伺うように質問してきた。
「え、じゃあ親父さんは?」
それはエレナのことではなくアレシェンカ自身についてだった。今度はアレシェンカが驚く番だったがそれほど辛い話題というわけでもない。こともなげに答えを返す。
「いないよ」
「育ての親は?」
「いないよ」
続けられた彼の問いに同じ答えを繰り返す。外を見つめている体勢に疲れたので身体をシートに預け直して、視線だけでダニーのほうを一瞥した。
「あたしに親はいないけど......経験上周りのみんながそうだったってだけの話。エレナは歳の割にかわいいし恋人もいないはずだから......アピールしてみたら? うまくいくかはわからないけど」
「今俺はそっちよりお前の事の方が気になってるよ。どうなんだそれ。両親も育ての親もいないって、お前今までどんな風にやってきたんだ?」
「......」
沈黙する。答えていいのか悪いのか分からないから。
嘘をつける自信は無いし、本当のことを言いたくもない。
こちらが黙り込んでいると彼は続けてきた。
「寂しくないのか?」
「......そんなこと考えた事も無いから......よくわからない」
それだけを答える。本当の事だ。思ったままの事。
それから彼は口を開かなかった。こちらの話を聞きたいのかもしれないがこちらがそのことについて話したがらないことに気付いたからかもしれない。
異変に気付いたのは、そんな時だった。
「見つけた」
ダニーが小さく呟く。と、同時に突然急ブレーキをかけて車を道脇に停車する。思わず前につんのめる。
「ちょっと」
「あいつがいたんだ。多分フランカもそこにいるぜ」
ダニーがベルトを外す。彼が銃を腰にしまいながら言ってくる。
「アレシェンカ、行こう」
逼迫したダニーのその科白には、計りようがない深い感情がこもっていた。
それが悲しみなのか、憎しみなのかは、よくわからないけれど。
++++
フランカが通りを曲がった瞬間だった。
後ろから音がする。
ちょうど、地下鉄駅を通り過ぎて、家に向かう住宅街に入ったところだった。そう。ラーサと変えるときも確かこの辺りで......
そんなことを考えて思わず身震いする。そして忘れさせられた記憶が今戻ってきていることに歯噛みする。何事もなく家に帰って、何事もなく暮らせたらそれが一番いいのに。
だが結局そうは行かないものなのだろう。暗闇の中を歩きながら冷静に考えている自分に気付いて思わず笑いそうになった。後方から近づく足音はフランカの耳にも入っていた。
しまった。
口だけで呟く。
その瞬間後ろから人が近づくのが分かる。
振り向く暇もなかった。背中のど真ん中に蹴りを入れられる。
「......ッ!」
悲鳴をあげる間もない。息を詰まらせてうつぶせに倒れ込む。アスファルトに鼻面をぶつけて頭蓋を突き抜けるような痛みが走った。
次の瞬間フランカの上に相手はのしかかってくる。相手が着ていた黒いコートが昼帰り、その中に銀色の瞬きが一瞬だけ見えた。
ナイフだ。
殆どそれしか見えなかったがフランカはそれを確信していた。振り上げられたときそれが自分に向かって突き刺さってラーサみたいに......
ああ、嫌!
だが次の瞬間フランカの上にのしかかっていた相手は背後からの衝撃で吹っ飛ばされていた。フランカの眼前に相手が転がりながら数メートル先までいって止まる。
「フランカ! 大丈夫?」
アレシェンカ。
「いこう。逃げよう!」
彼女が手を引っ張ってくる。だがその瞬間フランカの頭に浮かんだのはさっきのダニーの科白だった。彼の言葉をまるっきり信用するわけではないが、それでも彼の言葉は迫ってくるリアルがあった。
アレシェンカの必死さも、作られたものなのに。
そうおもった次の瞬間彼女の頬をフランカの手が打っていた。目の前でアレシェンカが叫び声をあげる。
「痛っ!」
「あいつを捕まえればもういいでしょ! あたしにかまわないで!」
さらに彼女の背中を蹴飛ばして殺人鬼に向かって突き飛ばす。よろめいた彼女の手を振りほどこうとするがその左手はこちらの腕を掴む力を緩めず離れようとしない。
「離して!」
アレシェンカに向かって叫ぶ。だが彼女は赤くそまった頬を抑えようともせずこちらに向かってさけんできた。
「嫌だ」
その科白にどれだけの気迫が込められていたのかはわからない。だがフランカはその瞬間自分より上の誰かに怒られたようにすくみ上がった。その言葉の持つ真摯さが、その瞬間彼女に対して持っていた苛立ちや不信を上回ったように。
「あたしを信じて」
彼女はそう呟くようにいうとこちらの腕を引っ張ってくる。が、その前に横から起き上がったらしい殺人鬼がせまる。
避けきれない。
銀色の線がこちらの顔めがけて放たれる。だがその直線上にアレシェンカが割って入ってきた。その手には銃。だが、引き金を引くより相手が懐に入り込むほうが早い。
「あ......」
フランカが呟く。彼女から離れた瞬間肉が切り裂かれる鈍い音とともに、アレシェンカの右胸にナイフが深く入り込む。こちらの身体が弾き飛ばされたと同時に彼女の背中から赤く染まったナイフの先端が姿を見せた。
血が飛び散る。黒いコートが赤黒くさらに染まり、彼女の足下に血溜まりを作っていく。
次の瞬間伸びたアレシェンカの左腕が相手の身体を突き飛ばした。ナイフは刺さったままとは思えない素早い動きで彼女は殺人鬼を押し倒すと、落ちていた銃を取り上げて撃鉄をあげる。
が、次の瞬間アレシェンカのその手を銃弾が貫き、続けて背中を衝撃が襲う。
それは彼女が刺されてから彼が現れるまで五秒とかからない間に起きた。もちろんフランカが反応するまで時間などあるわけもない。
飛び出してきたのは銃をもったダニーだった。
友達を救うために、アレシェンカを撃ったのだ。
「どけ! 撃つな!」
そう叫びながら飛び出してくる。
もちろんアレシェンカの右胸にはまだナイフが刺さったままだ。その所為もあってか普段以上に力なく地面に倒れ込むアレシェンカを尻目に、ダニーは冷たく言い放った。
「アレシェンカ。勝手に撃つんじゃねえ。そいつは俺が助けるんだ」
今まで聞いた事の無い冷たい声音だった。
「ちょっとダニー!」
フランカが叫ぶ。そちらに駆け寄ろうと立ち上がると彼がこちらを睨みつけてきた。
「お前は少し黙れ。そこにいろ」
それはいままでの彼にはない危険な空気だった。
その気迫に押されて思わず黙る。
腸を掴まれるような感覚にその場に、フランカは思わずその場に立ちすくむ。眼前ではアレシェンカが血を流して倒れている。早く助けなければ。
だがこちらと彼女の間に、殺人鬼が立ち上がり始めていた。
アレシェンカなら逃げろと言うだろう。
確かに逃げるのは一番かも知れない。
だがそれはできない。
「シェイ! 俺だ!」
ダニーが叫ぶ。相手はゆっくりと顔をあげると濁った目でこちらを睥睨してきた。視線の先はダニーではなくフランカ。
その感情がまったくこもっていない相手の視線を真っ正面から見返すと、フランカはあとずさった。その目と顔つきを見て驚愕。
なんと相手は女性だった。
男物のコートに黒い服装の相手、ラーサを殺してフランカを追いつめ、重傷を負わせた殺人者は女性だった。
髪の長さも分からず帽子を目深に被っていたので気付かなかったのだろう。
次の瞬間に相手の足が素早く地面を蹴ってこちらに肉薄してきた。その目はダニーではない。ただフランカを狙っている。ダニーの方が彼女にとって知り合いであろうに、それすら目に入らない。
相手が狙っているのは自分。
無差別な殺人ではないことがわかった。
「ひっ......」
その表情があまりに無表情だったのでフランカはのどの奥で悲鳴をあげる。相手の動きは無駄はなく、ただ標的を殺すために動いている。
両手にナイフはなかった。伸ばされた左手がフランカの喉を掴んで地面に押し倒す。さらにその上にのしかかってくると殺人鬼ーーシェイは新しいナイフを取り出してきた。今度はさっきの物より小型のようだが、こちらからすれば刺されれば致命傷になるのは間違いない。
「シェイ!」
ダニーが呼びかけるが反応しない。
ああ、死ぬのかな。
その刃物の先端を見つめながらそんなことを思うと突然飛んできたナイフがシェイの胸を突き破ってきた。後ろから大きな衝撃に突き飛ばされたように彼女の身体はフランカの眼前をとんでいくと前方の壁にそのナイフで縫い付けられる。
顔に血がかかるがその流れにフランカはついていけていない。呆然としていると眼前に現れたアレシェンカが左手を掲げていた。
「フランカ殺すならあたしを殺してからにしなよ殺人鬼」
早口でいうとアレシェンカはよたつきながらこちらに近づいてくる。
「平気?」
「そっちが大丈夫?」
思わず半眼で尋ね返す。だがアレシェンカは力なく笑ってみせてくると右胸を抑えながら小さく答えてくる。その肩は小さい。
「あたしの身体は丈夫だから。でも手を貸して欲しい」
フランカはアレシェンカを掴んで肩を貸した。こちらの服が汚れるがいまはそんなことを言っている場合ではない。
「ダニー」
「......」
彼は答えてこない。そのままシェイの元に行くと彼女の身体を抱き上げる。その目はどこか悲しげだが、アレシェンカを責める気はないらしい。
「あれは、やばかったんじゃないの?」
そんな彼をみながらアレシェンカに尋ねる。彼女はふいと顔をふると小さく答えてきた。
「正当防衛だよ。それに......あれは約束じゃない」
確かにそうだ、とフランカは思った。だが気になることはある。
と。
気の抜けた音があたりに走る。
その瞬間アレシェンカの身体から力が抜ける。
「あ......」
突然腕に彼女の全体重がかかり、不意をつかれて座り込む。そして続いて腕の中にアレシェンカが倒れ込み、それと同時にさっきのナイフの傷とは違う別な傷を見つける。
銃弾。
はっと顔をあげる。その柔らかい音がサイレンサーをつけた銃の音だがフランカはそれを知らない。アレシェンカを抱き上げようとすると目の先にある路地の角からマスクをつけた数人の人間が飛び出してきたのが目に入る。数は五人。
いけない。
彼女を引きずるようにしてきた道を引き返す。だが相手の方が早い。一番先頭にいたひとりが両腕を伸ばしてくる。持っているのは警棒だから恐らく殺人目的ではなく捕えるつもりなのだろう。
ああ、なんなのなんなの。
口の中で呟く。アレシェンカは反応しない。
すると横から伸びてきた手がその相手を突き飛ばした。
ダニー。
「俺がとめるから。いけよ。まっすぐいったら車があるから」
どうして、と聞きかけたところで彼がかぶせるように言ってきた。
「あと......悪かったなって......つっといて」
次から次へと起こるトラブルに頭が回らないのかもしれない。それは自分もだが、彼も同様なのだろう。
それはともかく、まだアレシェンカと出会って二日目である。
ノンストップすぎる。
なにもかも。
フランカはふらつきながら暗い通りを走り始めた。