煙を吐き出すと、それはゆっくりと空に向かって上っていく。
中身がわずかに残ったミネラルウォーターのペットボトルに灰を落とすと、アザミはぼんやりと上をみた。
その橋は以前と変わらず、そこにあった。
キャビア・ブリッジ。
先日クーと来たときはそれほど気にしていなかったが、こうして改めて見てみると周囲の景色はアザミが学生だった時代からほとんど変わっていないことに驚く。もちろん所々修繕はされているが、風景、雰囲気、わずかに感じる匂い、それらの感覚などは以前から変わるものではないようだ。
幸いそれはこちらの荒立った気分を落ち着かせてくれると同時に、今の状況に一抹の寂しさも感じさせた。
橋の右端で河川敷を眺めながらアザミは煙草を吹かしていた。思わず今回の事件、そしていなくなった人々を思い返していく。
あっけなくもあり、あまりになんとも言い難い幕切れではあった。
一緒に学んだ同級生のほとんどは遠方に行ったか、死亡した。
生き残る強さがありすぎるのもまた辛いことなのかもなと思う。
以前は空を飛べればなんでもいいと思っていたが、最近は戦闘に高揚するようになり、そして今回の出来事が起こった事で、アザミは自分のあり方を考えた。
どうありたいのか。
基地に車を返し、家までの道程を歩いてくるときもうわのそらだった。
こんなに悩むのは久しぶりだった。
もしかすると初めてかもしれない、
最後に悩んだ日を思い出せないのだから。
橋の手すりにもたれかかりながらアザミは吸い殻をペットボトルの中に落とした。二本目を取り出そうと箱を取り出すと、下からなにやらエンジン音が聞こえてきた。
この橋と河はそれなりの規模があるので、中型の船ならば通過もできる。何にとも無く眼下を眺めているとなにやら先が尖ったものが姿を現した。
船にしては細い......などとぼんやり考えていると、それは飛行機だった。
のっそりと河を滑るように移動する、水上飛行機だ。
機体の先端が補足鋭くなっており、羽が先に向かってV字型に開いている。後ろはジェットエンジンではなく今時珍しいプッシャ型のプロペラ機だ。
呆然とそれを見ているとキャノピィが滑るように開き、一人の人間が顔を出してきた。
その人間はこちらの顔を見つけると、笑顔を浮かべながら大きく腕を振ってきた。
「おーい。アザミー!」
クー。
ペットボトルをつかんで河川敷に降りると、アザミはその水上飛行機をみあげた。作りがやや古く、ジェットエンジンが使われる前に作られた戦闘機か、偵察機のようだ。だがそれにしては外装はしっかりしていて、きちんと手入れされていた。
いや、それよりも。
「あんた......なにしてんの」
「や」
ヘルメットにサングラス、Tシャツといった軽い出で立ちのクーは手をあげて挨拶してくると、翼を伝ってコクピットから降りてきた。とん、と河原に足をつけるとこちらに近づいてくる。笑顔で機体を示しながら、自慢するように胸を張った。
「すごいだろ? 三十年前の水上飛行機。うちのじーさんが退役したときにもらったやつなんだ。これ、滑走路じゃなくて水上から発進するんさ。水の中をかきわけて......」
「しね!」
彼がこちらから視線をそらした瞬間に、アザミはクーの胸を強く押した。河原の端にいたため彼がバランスを崩して河の流れに落ちる。
水しぶきがあがり、クーがあっというまにずぶぬれになる。
「ぶへっ!?」
「なんか色々気になるけど、とりあえずあんた、まず言うべき事あるんじゃねーの?」
仁王立ちのまま煙を吐き出すとアザミは半眼で彼を見下ろした。水の中からずぶぬれになったまま、上半身を起こしてきたクーが頬をひくつかせる。
「え? 何か気に食わなかった?」
「まず報告をしろといっとるんじゃあああああっ!」
今度は足蹴。二の腕を思い切り横なぎに蹴飛ばされたクーの身体がすっとび、再び水の中に飛んでいく。
「ぐぼっ!?」
両手を川底について顔を起こした彼の胸ぐらを掴んで無理矢理ひき起こすと、アザミはしゃがみこんで彼と目の高さをあわせた。
「まずはフレミングなりストルウェルなりに報告は?」
「も、もう終わってるっ」
「あんたたちあたしに黙ってたの?」
「......へ?」
「あんたが生きていることを知っていて、ヤツらはあたしに黙ってたと」
「あ、聞いてない? つーか別にあのひとらが普通にしてればアザミに報告しなければならないことでもなくない?」
「ムカついた」
「なんで!?」
「とにかくムカついたんじゃあっ!」
右手を思い切り振って彼を水の中に落とし込むと、アザミは身体をあげて眼前で揺れている水上飛行機を見た。
しばしそれを睨みつけた後、思わず笑みを浮かべる。
と。
妙な感覚に視線を足下に落とすと、川に落ちたクーが自分の右足を掴んでいる。
そちらに目を細めたまま見下ろして冷たく尋ねる。
「なに?」
「言いたい事が」
水の中から顔をあげて彼がこちらを見上げてくる。間髪入れずに彼は続けてきた。
「俺と結婚してよ。アザミ」
間。
二人の間に何とも言えない奇妙な時間が流れる。
しばらくその状態で固まったまま、二人は視線を交わした。だが、
「断る!」
短く言い放つと足を振り切る。今度は彼の鼻面に思い切りつま先がはいったが、振り返っていないのでよくわからない。アザミはそのままクーにきびすをかえすと水上飛行機の翼にのり、そのままコクピットの中を確認する。
そして、鍵がささっていないことに気がついた。
「ひっかかったね」
鼻血をぼたぼたしたたらせたまま、ひきつった笑いを浮かべてクーが身体を起こしてきた。鍵をもった右手をひらひらさせながら、彼はこちらを見上げてきた。
「残念だけど、それは新婚旅行用に借りたのさ。飛びたいなら......」
「結婚しろって?」
「でも、こればっかりは命令できないし」
そういうとクーは肩をすくめてきた。ズボンのポケットからハンカチを取り出すとそれで鼻血を拭い、あさっての方向をみながらわざとらしく息をついてみせてくる。
「あー、でも嫌なら。仕方ないかなー」
「あほか」
水上飛行機の翼からジャンプすると、アザミはこちらから視線を外していた彼めがけて飛びかかった。ついでに足を突き出して空中の勢いそのまま蹴りにする。それはクーの左胸にヒットし、油断していた彼を再び水中に突き落とした。
軽快な音と共に幾度めかの盛大な水しぶきがあがる。
「うあっ!」
「弱い男に興味はないんだよ。バーンスタイン大尉。さあ鍵をよこしなさい」
水の中に倒れた彼の身体に馬乗りになると、アザミは鍵を探すように相手のポケットの中をまさぐった。だが手に握ったままなのか、なかなか見つからない。
と。
不意にクーの足がのびてきて、アザミの身体を後ろに押しやった。思わずバランスを崩してアザミも水中に落ちる。
上半身を起こしてきたクーが大きく息をついた。
「黙ってきいてれば......俺が弱いって? 俺が何本の黒帯もってると思ってる?」
「へ? あんた黒帯だったの?」
「そう。君は昔から強くなれ強くなれと口酸っぱく」
立ち上がるとクーはあとずさった。その右手には機体の鍵。
アザミも立ち上がった。河原にでて首をならす。こちらをみながら彼が言ってきた。
「鍵が欲しかったら力ずくでやってみなよ。そのかわり、俺が勝ったら......」
「結婚?」
拳を叩きながら不敵に笑う。相手の顔をにらみながらアザミは水を吸って重くなった上着を脱いで、河原に投げた。
「上等ぉっ!」
次の瞬間、動いたアザミとクーの拳がお互いの顔にのめり込んでいた。
殴り合いに二人が疲れた頃、太陽はちょうど真上に来ていた。昼時を知らせる定時の鐘が町中に響き、買い物や、学校帰りの人々がちらほら見える時間だ。
顔面血まみれになりながらアザミとクーは、河原に横になっていた。
しばらく沈黙のあと、クーが口を開いてきた。
「昔は」
「ん」
「俺が負けてたよね。よく」
「そうね」
「今は勝つんだぜ。すごくね?」
「単純に訓練の差でしょ。ってか負けてないし」
「でも俺に勝てるって思ってたろ?」
「そねー。これは意外」
そう言いながらアザミは空を眺めた。青い、ただ青くずっと広がる空。
あそこに何を求めるのかもよくわからない。
「ねえ、あんたさあ」
「うん?」
「あんたはなんで飛ぶの?」
「そこに君がいるからじゃない?」
彼は即答してきた。その答えは予想していたが、それでも自分の答えにはならない。
それじゃああたしはなんのために飛べばいい?
そう言いかけて、やめた。
「あんたと一緒になればさあ」
「ああ」
「あたしも目的ができるのかな」
クーは黙っている。
「飛ぶこと、を目的にするんじゃなくて、飛ぶための目的ができるのかな」
そういうとアザミは身体を起こした。彼はすでに立ち上がって水上飛行機にむかっていた。その背中はどこか広く感じる。
こちらを見ずに彼は言ってきた。
「それが君にとって良い事ならそうするべきだと思う」
アザミは息をついた。その通りだ。
クーが手を差し出してきた。
「俺はいつでも君の答えになる。俺が君の飛ぶための目的になるよ。だからさ、俺と一緒に空に行こうよ。アザミ」
その手と彼の目を交互にみやる。
意地をはって面倒なことをしなくても、答えは結局見えていたのかもしれない。
++++
キャノピィがしまる音が河川敷に大きく響く。
間もなくエンジンの音と共にプロペラが回り、機体を前進させていく。
河川の流れに沿って機体が浮かび、そのまま青空に向かって上昇していった。
オールドクロスフォードの街を眼下に、それはどんどん高度をあげていく。
機体が昼の陽に反射して光った。
わずかにロールすると、それは遥か上空に消えていく。
その後ろを飛行機雲が作っていった。
"AZAMI -- Drop in the Sky" Closed.